1546-1604。享年59歳 ※数え年
【くろだ かんべえ】幼名:万吉。官兵衛孝高。如水円清
1546(天文15)年 1歳 |
11月29日、播磨国 姫路城主・黒田職隆の嫡男として生れる。 |
1559(永禄2)年 14歳 |
母・いわ没。 |
1561(永禄4)年 16歳 |
元服し、名を官兵衛孝高と改める。主君・小寺政職の近習として出仕。 |
1562(永禄5)年 17歳 |
父・職隆に従い初陣を飾る。 |
1567(永禄10)年 22歳 |
家督を継ぎ、姫路城となる。政職の縁戚である光と祝言をあげる。 |
1568(永禄11)年 23歳 |
嫡男・松寿丸(のちの長政)が誕生。 |
1569(永禄12)年 24歳 |
龍野 赤松軍を撃退(青山・土器山の戦い) |
1575(天文3)年 30歳 |
播磨が織田信長と毛利輝元の勢力争いに巻き込まれ、小寺家を織田方帰順にまとめる。自ら信長に拝謁し、小寺家が信長に味方することを伝える。この時、名刀「圧切長谷部」を賜る。また、羽柴秀吉と会う。 |
1577(天文5)年 32歳 |
信長への人質として、嫡男・松寿丸を差し出す。中国攻めのため、秀吉に姫路城を提供。秀吉と義兄弟の契りを結び、二人三脚で播磨攻略を進める。 |
1578(天文6)年 33歳 |
織田方についていた有岡城主の荒木村重が寝返り、主君・政職も毛利方につく。村重の説得に赴くも有岡城に幽閉される。 |
1579(天文7)年 34歳 |
有岡城が落城し、家臣によって救出される。1年間の幽閉生活で膝が曲がり、神は抜け落ちたが、謀反人の汚名はそそがれる。 |
1580(天文8)年 35歳 |
兵糧攻めで三木城を落とす。人質となっていた松寿丸が姫路に戻る。 |
1581(天文9)年 36歳 |
鳥取城への攻撃において、秀吉に兵糧攻めを献策。 |
1582(天文10)年 37歳 |
備中・高松城攻めで水攻めを献策。冠山城攻めにて、長政が初陣。信長の死を悲嘆する秀吉に「中国大返し」を進言、「山崎の戦い」で明智光秀を破る。 |
1583(天文11)年 38歳 |
この頃、キリスト教に入信し洗礼を受ける。 |
1585(天文13)年 40歳 |
父・職隆没。四国征討の軍監を務め、讃岐・阿波を攻める。 |
1586(天文14)年 41歳 |
九州征討の軍奉行を務め、豊前の主な城を落とす。 |
1587(天文15)年 42歳 |
九州征討の褒美として、豊前6郡12万石に封ぜられる。 |
1588(天文16)年 43歳 |
豊前・中津城が完成、領主となる。広島城の築城を指導する。 |
1589(天文17)年 44歳 |
長政に家督を譲る。 |
1590(天文18)年 45歳 |
秀吉の天下統一の総仕上げ、小田原攻めに加わる。 |
1592(文禄元)年 47歳 |
宇喜多秀家の軍監として朝鮮へ出兵。秀吉の許可を得て帰国。 |
1593(文禄2)年 48歳 |
再び朝鮮へ出兵するも無断で帰国。現地で石田三成らを怒らせる。秀吉の怒りを買い、剃髪して「如水円清」と号す。 |
1600(慶長5)年 55歳 |
九州で勢力拡大を企て、大友義統軍を破る(石垣の戦い)。九州北部をほぼ平定。長政は関ヶ原で活躍し、筑前52万石を賜る。 |
1601(慶長6)年 56歳 |
福岡城築城が始まる。 |
1604(慶長9)年 59歳 |
3月20日、永眠。 |